本能寺の変から437年。未だ定説なしも、見直しの機運あり。

明智光秀関係
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6月2日は裏切りの日?

6月2日は本能寺の変があったとされる日です。
旧暦での日付なので、現在の暦では7月後半くらいになるらしいですが、いずれにせよ、新月なので真っ暗で、蒸し暑い日だったのでしょうね。
本能寺の変があった日なので、「裏切りの日」とも呼ばれているらしいです。
しかし、光秀の行動は本当に裏切りだったのでしょうか?
そもそも、当時が下剋上が当たり前の時代であり、光秀だけがどうして裏切り者扱いされないといけないのでしょうか。

怨恨説は否定されています。

昔からある怨恨説は、近年、完全に否定されています。
これは秀吉によるプロパガンダだったり、理由がわからないから、物語として作られたというのが本当のところのようです。
その他の説としては、「朝廷黒幕説」「イエズス会黒幕説」「足利義昭黒幕説」「秀吉黒幕説」「家康黒幕説」あたりが有名ですが、どれも決め手がありません。
信長や光秀がノイローゼやうつ病だったなんて説も聞いたことがあります。
世の中で唱えられている説を集めると60を超えるそうです。

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光秀の末裔によると……

最近、光秀の子孫を自称されている明智憲三郎氏の著書「光秀の遺言」という本を読みました。
物語的な要素を取り払い、資料を丹念に調べられ、科学的に検証された内容には感服しました。
その本では、ある大名と光秀の共謀だったのではないかと結論付けられていました。
それが誰なのかは本を読んでみてください。

個人的に長年思っていること

長年、私が疑問に思っているのは、遺体が残らなかった信長にはまるで落ち延びたという説がないのに、光秀には落ち延びたという説が、よく知られているだけでもふたつあることです。
有名なのは、家康のブレーンである黒衣の宰相、南光坊天海こそ、光秀と同一人物だという説ですね。
家康が徹底して豊臣家を滅ぼしたのも、光秀の重臣だった斎藤利三の娘が春日局として、三代将軍家光の乳母となったのも、それなら納得がいきます。
日光東照宮周辺の一番見晴らしのいい場所を明智平と名付けたのも天海僧正だと言われています。
とあるテレビ局で光秀と天海の真筆を筆跡鑑定したら、同一人物ではないが、縁戚の可能性は高いと出たそうです。
同一人物かどうかはともかく、光秀を尊敬していたか、関連する人物であることは間違いなさそうです。
もしかしたら、光秀の息子だったのかもしれませんね。

もうひとつは、小栗栖の竹藪の中で死んだのは、光秀の影武者を務めていた荒木山城守行信で、光秀は故郷の美濃に逃れ、中洞という土地で、荒木山城守の恩に深く感謝して、荒深小五郎と名乗り、暮らしたという説です(ちなみに私のペンネームの荒深小五郎はここからいただいています)。
この荒深小五郎は隠遁生活を送ったあと、関ヶ原の戦いに参加しようとしたが、増水した川(木曽川支流の根尾川)を渡る際に溺死したと言われています。

何を言いたいのかと言うと、遺体も残らなかった信長にこそ落ち延びた説があっても良さそうなのに全くなく、裏切ったとされる光秀には、なぜ落ち延びたという説があるのかということです。

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光秀は怨霊?

これは、当時の人々が光秀のことを気の毒に思ったのではないかと考えられないでしょうか?
記録に残されている限りでは、光秀はやりたいことをやって死んだと言えなくもないですが、このような話が残るということは、余程無念の死を遂げたと考えられたのではないかとも考えられます。
しかも、領地だった坂本や亀岡、福知山では親しまれていた人なのに、秀吉の宣伝により、極悪人のように扱われていて、とても気の毒であると。
下手すれば、祟りを起こすかもしれない……と当時の人々が考えても不思議ではないかと思います。

もしかすると、残虐な信長を倒したヒーローとして、当時の人々は光秀の快挙を喜んだのかもしれませんね。
新たな文献の発見か、考古学的な発見がない限りは、解明されないかもしれませんが、いつか、この謎を解くのが私の夢です。

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