本能寺の変から435年……光秀の書状を信じてはいかがでしょうか?

明智光秀関係

若い世代のためにやったこと?

今年も本能寺の変の日(6月2日)がやって来ました。
なぜ、明智光秀は織田信長を倒したのか、未だ決定的な説は生まれていません。
おそらく、新たな文献が発見されるか、考古学的な発見でもないかぎり、解決はされないでしょう。
最近、個人的に考えているのは、光秀が事件直後に細川幽斎に送った手紙に書いている「このたびのことは、ひとえに與一郎(細川忠興)ら若い世代のためにやったこと」という話をその通りに信じてみてはどうかということです。
光秀には十五郎(光慶)という西洋の貴公子に匹敵するとルイス=フロイスに絶賛された立派な息子がいました。
若い世代というのは、この息子のことも表しているのではないでしょうか。

織田家はブラック企業だった?

信長は冷徹な主君だったとされています。
古くからの家臣を突如、追放するほど苛烈でした。
そんなブラック企業の社長みたいな信長の下で、息子たちを働かせたくなかったと光秀が考えても不思議ではありません。
光秀が当時としては老齢の域に達していただけに余計にそう思います。
ちなみに本能寺の変当時の光秀の年齢については、55歳説と67歳説があります。

秀吉は晩年、明国を征服しようとし、朝鮮半島まで兵を進めましたが、この構想は元々信長が考えていたことだと言われています。
大坂を天下の中心と考えることもそうです。
当時は家系を残すことが今よりもずっと重視されていた時代です。
土岐源氏の血を残し、かつての栄光を取り戻したいと光秀は考えていた節があります。
ところが、はるか大陸まで攻めるようなことをさせられては、ボロボロになるまでこきつかわれ、下手をすると家系が途絶える……そう考えた光秀が信長を倒そうと考えたのは自然なことだったかもしれません。

なぜ、光秀だけが悪者にされるのか?

下剋上が当たり前だった時代、光秀が信長を斃したのは当時の常識としておかしいことだったのでしょうか?
光秀が謀反人の代表のように扱われるのは不憫だと思います。
戦国三大梟雄と言われるメンバーに光秀は入っていません。
そのあたりは秀吉の宣伝や、江戸時代に入ってからの儒教文化、そして、戦前の皇国史観による影響があるのでしょうが、近年、いろいろと見直しが行われているのが、一ファンとしてはうれしいですね。

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