天武天皇の生年はなぜか不明。兄の天智天皇より年上だった?

地理・歴史系
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天武天皇とは?

天武天皇は日本の第40代天皇です。
即位前は大海人皇子と呼ばれていました。
父は舒明天皇、母は皇極(斉明)天皇と言われており、天智天皇(中大兄皇子)の同父母の弟とされています。
妻は後の持統天皇です。
天智天皇の没後、天智天皇の息子、大友皇子(弘文天皇)を壬申の乱で倒し、即位しました。
中国から多くの制度を取り入れ、新たな政治をはじめました。
「日本」や「天皇」という呼称が作られたのはこの頃だと言われています。
藤原京の造営も始めました。
「古事記」「日本書紀」の編纂を始めたのも天武天皇の時代です。

なぜか不明な生年

このあまりにも有名な天武天皇ですが、なぜか生年は不明とされています。
日本書紀には生年の記載がありません。
天智天皇の生年は記載があるのに、なぜか天武天皇に関してはありません。
中世の資料、特に有名なところでは、本朝皇胤紹運録、神皇正統紀に没年が書かれていて、前著には65歳、後著には73歳で亡くなったと記録されています。
天智天皇は626年の生まれで、46歳崩御。
天武天皇は生年不明で686年崩御。
享年は65歳か73歳。
つまり、仮に65歳崩御だとした場合、621年の生まれとなるわけで、天智天皇より4、5歳年上となってしまうわけです。
73歳説にすると、さらに離れてしまいます。
そのため、この事実については、権威ある学者が書紀の兄弟という記述を信用したいがため、65歳というのは、56歳の書き間違えたのだと決めて、長く通説となっていました。
しかしながら、複数の書物に65歳と書かれているわけで、すべてが書き間違えというのは考えにくいでしょう。
65歳と書かれている書物が同時代のものではないため、資料としての信用が疑わしいと見る人もいますが、権力者やその後継者がいた時代に書かれた記録が、権力者に都合の悪い記述を残せるとも考えにくく、むしろ、時代が下がった時期の資料の方が信用できる向きもあります。
では、天武天皇とは何者だったのか、という話になりますが、天智天皇とは同父母の兄弟ではなく、父親違いの兄弟であるという説があります。
父母の身分の差で弟にされたという説です。
また、中国から道教や神仙思想、律令制度などを取り入れていることから、大陸からやってきた人物だという説もあります。
さらには、天武天皇が壬申の乱で戦いを挑んだとき、赤い衣装を兵士たちに着用させるなど、漢の高祖劉邦に自らをなぞらえたという記録があります。
劉邦といえば、まともに本名も伝わっていないような、身分の低い家柄の出身です。
その劉邦になぞらえたということは、天武天皇自身も同じような身分の出身だったという飛躍した説も存在します。

天智天皇の娘と結婚

天武天皇は天智天皇の娘を四人も妻にしています。
そのうちのひとりが後の持統天皇です。
実の兄弟ならここまでして血縁関係を深める必要があったのでしょうか?
天智天皇の死後、大友皇子を倒していることからも、やはり兄弟ではなかったと考えるのが自然のように思われます。
乱のあと、天智天皇の皇子たちと自分の娘たちを婚姻させ、さらに血縁関係を深めています。
それは、自分が権力の座に着くにあたり、正当性を高めるために血を深めたとも考えられます。

歴代天皇の菩提寺に天武系天皇の位牌がない

京都の泉涌寺に歴代天皇の位牌が安置されていますが、なぜか天武天皇から称徳天皇までの天武系天皇の位牌がありません。
ここまで歴然としていると、やはり天武系の天皇を正統と認められないからではないでしょうか?
子がいなかった称徳女帝が弓削道教に天皇の位を譲ろうとしたのも、天智系の天皇に位を明け渡すことになるのが口惜しかったからではないかとも考えられます。

草薙の剣に祟られた?

日本書紀に天武天皇が草薙の剣に祟られたので、天皇は熱田神宮に剣を送ったという記載があります。
三種の神器のひとつである草薙の剣がどうして天皇を祟るのでしょうか?

いずれにせよ、今も天武天皇の生年は不明なままとなっています。

<参考文献>

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