「カノッサの屈辱」について簡単に流れをまとめてみました。

地理・歴史系
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はじめに

テレビのバラエティ番組のタイトルにもなったりして、知名度だけは高い「カノッサの屈辱」。
実際はどういう出来事だったのか、流れをまとめてみました。

時代背景

時は11世紀のヨーロッパ。
当時、聖職者の人事権はローマ教皇にあるのか、神聖ローマ皇帝にあるのかで、両者に争いがありました。
これを「叙任権闘争」と言います。

争いの始まり

神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は北イタリアの支配を強化したかったので、この地域に自分の子飼いの司祭たちを配置しました。
しかし、これに教皇グレゴリウス7世が反発。
互いに激怒し、皇帝は教皇を廃位するといい、教皇は皇帝を破門すると宣言します。

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まずは教皇が先手を取ります。

先にピンチを迎えたのが皇帝で、皇帝と敵対していたドイツ貴族たちが教皇を支持し、破門が解かれなければ、新しい皇帝を用意すると表明します。
追い詰められた皇帝は教皇に許しを得るために、教皇が滞在中のカノッサ城を訪問。
許しを得ようとしましたが、教皇側は逆にワナではないかと恐れて城を出ませんでした。
皇帝は雪の降る寒い中を武器を外し、修道士の格好をして許しを請いました。
その姿を見て、感動したのか、仕返しを恐れたのか、教皇は皇帝を許します。

皇帝の反撃

皇帝は目的を果たすと、すぐさまドイツへ戻り、敵対していた貴族たちを一掃。
その後、再び「叙任権闘争」が起こると、今度は皇帝がすばやく対応。
イタリアへ軍勢を差し向け、教皇をローマから追い出しました。
ただし、後に叙任権は教皇側にあることが確認されます。

結果

結果としては、教皇側の二勝一敗かと。
この事件は、以後、教皇は皇帝よりも優位であるということを宣伝する例として、さかんに使われることになりました。
もっとも、信者に序列はないと、カトリックを非難するプロテスタントは、この事件を非難しているようです。

余談・スイス人傭兵について

16世紀にローマの町は神聖ローマ皇帝カール5世に攻められ、バチカンもまた略奪を受けます。
このときの教皇クレメンス7世は、スイス人傭兵たちが多数死亡しながらも、最後まで見捨てず戦ったので、命からがら逃げ出すことができました。
それ以来、バチカンを守護するのはスイス人ということになり、今も伝統として続いています。

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